●シャロン、外相へ
1998年10月9日、ベンヤミン・ネタニヤフ首相は、イスラエルの最たる戦争屋のアリエル・シャロン将軍を外相に任命したことを発表したが、ネタニヤフは、それによって、平和を求める態度を捨て、今後数ヶ月の新たな中東戦争危機を押し出す意向を明らかにした。
1993年のオスロ合意のイスラエル側の立案者であったイツハク・ラビン首相は、1995年に暗殺されたが、シャロンは、その合意の履行を妨害するために、ネタニヤフと共に、その暗殺を引き起こすのに重要な役割を果たした。
シャロンは、1996年のネタニヤフの選挙の時のシンクタンクでもあり、オスロ合意と中東和平に反対するキャンペーンを推進した。
ひとたび政権につくと、ネタニヤフは、新しいスーパー省である国家基盤省をシャロンのために特別に作った。シャロンはその省を利用して、西岸のユダヤ人入植者の民間軍に資金を供給した。
ラビンを暗殺した青白い殺し屋は、この入植者の中から出たのである。
しかし、ネタニヤフがシャロンを外相に任命したことによって、今シャロンは、ネタニヤフ政権の外交政策スポークスマンのトップに浮上し、クリントン政権との交渉における重要人物になっている。
ネタニヤフは、彼の拒絶策が、戦争になだれ込むように計画された、パレスチナ人に対するはるかに攻撃的な挑発によって補完されることも明らかにした。オスロ合意は、調印された時からシャロンとネタニヤフの義務だったが、パレスチナ人とのそのような戦争は、たとえ武力衝突だけだとしても、オスロ合意を殺すようなものである。
イスラエルがまもなく戦争を始めるかもしれないという恐れは、中東そのものとは関係があるのではなく、イギリスの方針を反映している。グローバルな財政危機のさなかで、新ブレトンウッズ体制が出来上がる前に、機先を制そうということである。
シャロンの任命は、アメリカ議会が、クリントンの弾劾審議の陪審員を選ぶ評決を行った2時間以内に行われたが、それは偶然ではない。
そして、シャロンはすぐに、イスラエル政府が、攻撃にさらされているクリントン政権と対立する姿勢を固めることを明らかにした。
1998年9月の終わりのニューヨーク・サミットで、ネタニヤフは、パレスチナ自治政府議長ヤセル・アラファト、アメリカ国務長官マデリン・オルブライトと、西岸の13%から撤退することに同意したと報道されていたが、10月9日のイスラエルの新聞は、外相としてのシャロンの最初の声明を報道し、シャロンは、その並外れて不適切な割合にも依然反対する態度を表明していた。
シャロンは、アラファトを“殺人者”と呼んでいたが、アラファトが、オスロ合意の約束を完全に履行するように配慮する意向を語った。
このことは、シャロンにとって、またネタニヤフにとっても、オスロ合意のあいまいで不可能な要求を受け入れることを意味している(例えば、アラファトが「パレスチナ人のテロを辞めさせる」など)。
10月9日、シャロンが任命された数時間後、精神治療を受けているパレスチナ人が、イスラエルの兵士を刺殺するという事件が起きた。この事件は、ぜんまい時計のように、必要な口実を提供した。
10月13日、ネタニヤフは怒鳴りながら、「この殺人は、パレスチナ自治政府が、テロと戦っていないことを表している。よって、13%からの撤退を規定している、アラファトとの暫定取り決めには署名しない」と発表した。
パレスチナ人と正気のイスラエル人は、シャロンの任命が、イスラエル全体のオスロ合意履行の崩壊を意味するということに直ちに気づいた。
任命があった日、パレスチナの交渉担当者サエブ・エラカートは、「ネタニヤフは、合意の最終地位段階をキャンセルして、和平の存在しない流血の道を選んだことを世界に告げている」と言った。
同様に、イスラエルの日刊新聞『ハーレツ』は、解説欄で強調した。
「レバノンの恐怖を覚えている人や、また、シャロンが、和平プロセスの生けるバリヤーとして、パレスチナ人の国を、西岸ではなくヨルダンにすることを提案した人物だということを覚えている人や、また、西岸への入植でシャロンが有頂天になっているのを見たことがある人なら誰でも、この任命を耐え難いと思うであろう。」
ここで我々は、シャロンの“あまり輝かしくない”経歴の二つの段階に焦点を当て、シャロンの任命が、ネタニヤフ体制がパレスチナ人との対決を決めているということを意味するのかということを示していく。
第一は、1967年の戦争に直接関わった時から、1982年に任命されるまでである。シャロンは、この期間に、新たに占領した西岸とガザ地帯を、アラブ人のいない地域にする政策を固め、入植者運動の創設を監督した。アメリカとイギリスのサイドが、同じ目的でその土地を買い上げようとしていたが、シャロンは、その表看板の役も務めた。
第二は、1993年のオスロ合意に反して、入植者運動を進める役割を果たし、1995年のラビンの暗殺の準備をし、今後中東和平プロセスの脅威が生じないようにしたことである。
●シャロンの横顔
1967年のアラブとイスラエル戦争で、イスラエルが東エルサレム、西岸、ガザ地帯をを占領してから、アリエル・シャロン将軍は、これらの土地にアラブ人がいないようにするために、それらの土地から、約160万人のパレスチナ人をヨルダンとエジプトに追い払うことを公に提唱していた第一人者だった。
最初から好まれたテクニックは、イスラエル国家によるテロ、政府による領土併合、民間による土地の購買、ユダヤ市民軍による新しい土地への入植(“入植者運動”)だった。これらは宗教的理由で、イスラム教徒を追い払うことを目指していた。
この方針は、古くからのシオニストの夢の実現として売られる一方で、ロンドンが舵取りをする実際の目的は、イスラエルの領土占領が簡単にはひっくり返されないように保証することで、そのために、その地域で今後何十年か、紛争や戦争が続くようにすることである。
シャロンはこの政策を実行して、自らの政治的政歴を作っていった。
1967年の戦争直後、シャロンは当時イスラエル国防軍(IDF)の将軍だったが、西岸に武装したユダヤの民間人を配置した最初の人物だった。その配置は、“防衛ライン”を作るという口実でなされた。
シャロンはこの手段で、入植者運動となるものの基礎を築いた。
1972年、シャロンとその相棒、元警察相イェズケル・サハルと、現在ネタニヤフの連立与党モレデット党の党首であるレハバム・ゼエビは、イスラエル政府をうまく動かして、イスラエル人が西岸の土地を買うことが禁止されていたのを、部分的に解除させた。
1973年、シャロンは、この拡張主義的政策を組織するために、軍を去って政治に入った。シャロンがそうするように説得したのは、シャロンの長年のパトロン、当時ラピド・アメリカン社のアメリカ在住オーナー、メシュラム・リクリスだった。
リクリスは、ミネアポリスの穀物商で、ブナイブリスのユダヤ名誉毀損防止連盟(ADL)の副会長バートン・ジョセフと、ウォールストリートの一流の法律家でADLの全米会長ケネス・ビアルキンの表看板だった。
1973年12月、シャロンは、このパトロンの援助と資金供給によって、クネセト(国会)に選出された。
1977年にメナヘム・ベギンのリクード連合が政権についた後、占領地区の“ユダヤ化”が劇的に加速度を増した。
1977年9月、ベギン首相がシャロンを農業相に任命したのが決定的だった。農業省は、農業上の入植全体の援助を監督するが、西岸の入植者運動関係のものも含まれるからである。
シャロンは、この入植を拡大することに主に関心を向けていた。シャロンは、その職についた最初の月の終わりに、西岸への新しい入植の認可をすでに始めていると公式に宣言した。
政府に入る前のシャロンの初期の頃の努力にもかかわらず、1976年の時点で、西岸(東エルサレムの外)には3000人のユダヤ人しかいなかった。
農業相に在職している間に(1977-81)、この入植は急速に増加した。
1981年までには、農業省の保護のもとで、約2万5000人のユダヤ人がそこに入植した。1986年までには6万人以上が入植し、現在では、東エルサレムを含めて、15万人以上の入植者がいる。
新入植者のほとんどは、1967年の戦争の後広がった狂気じみたカルトのメンバーである。
その中には、グッシュ・エムニームと、アメリカが作ったユダヤ防衛連盟(JDL)、すなわちラビ・メイヤー・カハネのカハ党があり、両者とも、アラブ人をその区域から追い出すことを目指している。
そして、アテレット・コハニームは、ソロモン神殿をその場所に再建するために、エルサレムのエルアクサ・モスクを破壊しようとしている団体だが、それも同様の目的を持っている。
これらのセクトは、その発端の時から、アーヴィング・モスコウィッツなど、シャロンとネタニヤフのアメリカ銀行家の資金援助を受けており、イスラエル諜報機関のシャロンの仲間が動かしていた(モスコウィッツは、1996年のネタニヤフの選挙に資金を提供した)。アテレット・コハニームは、シンベト内部のネタニヤフの仲間が運営している。
この時期に、シャロンの長年の協力者、ラフィ・エイタンが、ベギン首相の“テロ対策戦争問題顧問”になった。エイタンは、武器供給・訓練・入植者運動への資金供給等を通じて、パレスチナ人に対するテロリスト作戦を監督した。
1979年、イスラエルの最高裁は、「イスラエル人は、特別な控除を必要とせずに、個人で西岸の土地を買うことができる」という裁決を下し、上述の諸団体の努力に対して重要な貢献を行った。
ニューヨークやロンドンのシティの、シャロンの銀行家にとっては、投機のための表看板の人物を見つけることは、些細なことだった。その結果、ニューヨークとロンドンは、イスラエル政府の決定からは独立して、その区域の人口統計を劇的に変化させる能力を与えられた。
1980年、シャロンは国際的な宣伝活動を開始し、民間による土地購買を促進するために、アメリカやヨーロッパを周遊した。
1981年、イスラエルの最高裁は、 「イスラエル政府は、領土内で空いていて耕作していない土地は、国家の財産だと宣言できる」という裁決を下した。それから4年以内に、西岸とガザ地帯の半分は占領された。
●ハーレックとキッシンジャーの土地の横領
1982年、シャロンは国防相に任命され、不動産市場で大もうけする舞台作りをした。それも、アラブ人を殺すことによって。
その目的のために、イギリスのイスラエルの扱い人のトップの一人で、元ヘンリー・キッシンジャーの国務長官であるハーレック卿(デビッド・オームズバイゴア)が、西岸を買い上げるために、国際共同事業体を結成した。しかし、その動機は単に金ではなくて、地政学上の理由もあった。
ハーレックの計画では、その団体を代表して広い面積の不動産を買うために、ユダヤ人とアラブ人の代理人が使われる予定だった。
その団体は、大量のソ連のユダヤ人をイスラエルに船で送る計画をすでに立てていたが、そこに入植する予定となった。
そこに住んでいたアラブ人は、ヨルダン川を渡って、ヨルダンにどっと逃げ込んだ。これは、シオニストの用語では、“移動”と呼ぶ。領土の人口統計は、絶えず変更しなければならなかった。
パレスチナ人を追い出すことは、当然暴力を必要とする。これが、シャロンが入った理由である。
国防相シャロンは、移動を促進するために、自分の農場で何度も会議を開いた。その会議には、テロ対策戦争問題顧問ラフィ・エイタン、エイタンの前任者レハバム・ゼエビ将軍、シャロンの金袋メシュラム・リクリスが参加した。
この会議の後、シャロンの狂人たちは挑発をグレードアップし、バッシングや殺人の新展開や、新たなエルアクサ・モスク爆撃未遂などが行われた。
イスラム教徒の聖地を冒涜することは、暴力のエスカレート現象を急速に起こし、イスラエル軍が、西岸のパレスチナ住民をまとめてヨルダンに追いやる口実を与える、と思われている。
アラブ人を虐殺するために、民間の“入植者”を使うと思われるシャロンの方針は、新しいものではない。その政策は、少なくとも1953年にさかのぼる。
当時、モシェ・ダヤン将軍が、イスラエル軍の中に秘密部隊“ユニット101”を作る命令を出し、民間人に援護されて、パレスチナ人の大量虐殺を密かに行ったと非難された。シャロンは指揮をとる立場に置かれた。
1953年、シャロンは部隊を率いて当時はヨルダンの一部だった西岸に入り、キビヤ村で66人を殺した。この大量虐殺は、2、3日前にイスラエルのユダヤ人二人が射殺されたことの“報復”として行われたと思われる。
その事件の2時間後に現場を調査した国連軍は、このように述べた。
「銃弾で殺された死体が戸口に横たわり、多くの銃弾が破壊された家の戸口を襲い、住人は、家が吹き飛ばされてその下敷きになるまで、その中にいなければならなかった。」
さらなる襲撃がすぐに加えられた。
1955年2月、その部隊はガザ地帯でエジプト人兵士22人を殺し、さらに8月には、ガザ地帯のハーン・ユニス村で39人の民間人を殺した。
1956年、イギリス・フランス・イスラエルがエジプトを侵略する2ヶ月前の10月には、シャロンの部隊は、ヨルダンの西岸の町カルキルヤで83人の民間人を殺した。
10年間の大虐殺の後、シャロンの部隊は、イスラエル国防軍の落下傘部隊に編入された。その時まで続いた虐殺は、全部ユダヤ人の民間人が自ら行ったものだとされた。
●オスロに反して動員
シャロンの政策は、外国がスポンサーについて、占領区が“大イスラエル”の一部であり続けることを確実にするために、入植者運動を作ろうというものだが、批判する人々もいる。
1980年代を通じて、労働党の官僚の一群が、中東和平に基づいた他のイスラエルの戦略を進めていた。最も顕著だったのは、元首相のシモン・ペレスであった。
彼らの見解では、占領区を放棄することは、和平のためには小さな代償だった。とりわけ、そうすることが、中東全体の経済発展の道につながるという理由だった。
1987年にはインティファーダが起こり、これは、その年に始まったイスラエルの支配への抵抗運動だが、この鎮圧にイスラエル軍が失敗したことによって、ついに元首相イツハク・ラビンを和平側の見解に引き入れることに成功した。
ラビンは、イスラエル軍の創設者だったが、軍隊は、それ自体ではイスラエルの存立の保証人にはなり得ないということに気づいていた。
ラビンにとっては、これは、占領区を放棄することを意味し、シャロンのユダヤ人入植を解散させ、パレスチナ人国家の創設を認めることを意味していた。
1992年、労働党は政権に返り咲き、ラビンは首相、ペレスは外相として、この政策を政府の最大の任務として進めることになった。その結果が、1993年8月にイスラエルとパレスチナ解放機構の間で結ばれたオスロ和平合意である。
彼らの側としては、つまりイギリスと、アメリカにいる作戦仲間は、オスロ合意は“開戦理由”だと考えた。オスロ合意は中東に和平をもたらし、彼らの地政学的ゲームを終了させる恐れがあるからである。
その結果、彼らはラビンらに対する総力動員を開始した。その動員の一つの顕著な例が、オスロ合意を阻止するためにシャロンの狂人たちを放ち、その手段として、ラビン首相を含めた大虐殺や殺人を行ったということである。
イスラエルで、シャロンとネタニヤフのリクード連合が、オスロ合意に示した最初の反応は、控えめなものであった。リクード連合全体は、外国の指令を待っていたが、指令が来るのにそう長くはかからなかった。
9月上旬、リクード連合党首ベンヤミン・ネタニヤフは、国家に対する大変な反逆ということで、外相ペレスを公的に非難した。9月9日には、ペレスは、「ネタニヤフはアメリカの財政家のために動いている」とやり返した。
キッシンジャーは、オスロ合意を非難した非イスラエル人の急先鋒だった。
キッシンジャーは、9月11日にCBSニュースで、「合意は実行不可能だ」と発言し、アラブ人もイスラエル人も“調子が良い”と小言を言った。
2週間後、キッシンジャーは、ユダヤ問題に関する機関であるADLのロンドン局で演説し、「イスラムのファンダメンタリストがヨルダンを乗っ取り、合意の履行を妨げるだろう」と予言した。
そして10月11日には、オスロ合意に反対する最初の国際会議が、ワシントン郊外で開かれ、約800人が参加した。
これを進めたのは、シャロンの長年の親友、バートラム・ツヴァイボンとハーバート・ツヴァイボンだった。ツヴァイボン二人とブルックリンのADL議長バーナード・ドイチェは、ラビ・メイヤー・カハネのユダヤ防衛連盟(ADL)を創設した。JDLは、ラビン暗殺の風潮を作り出すのに重要な役割を果たすことになった。
10月16日、シャロンはそのテーマを取り上げ、イスラエル政府に抗議するために、公に入植者を募り始めた。
11月4日、シャロンはアメリカに行き、オスロ合意に反対する動員のための長いツアーを始めた。それを実行したのは、イスラエルの政治家では、シャロンが最初だった。
ニューヨークの会議の基本方針演説で、シャロンは、合意に反対することを呼びかけ、「パレスチナ国家に対し、今我々が有している唯一の防御策は、入植者だ」とわめきたてた。入植者は15万人になったが、ラビンは、入植者について、「誰が本当にエルサレムを守っているのか言い難い」と発言した。
シャロンのツアーには、イェヒアル・レイターという、JDLと入植者運動の指導者が随行していた。
●ラビン暗殺の準備
シャロンがアメリカの聴衆に語ったところでは、シャロンのアメリカツアーの主な目的の一つは、JDLカルトが、パレスチナの西岸の都市ヘブロンのすぐ外にあるキリアット・アルバに入植する資金を集めることであった。
シャロンは、その入植は、キリアット・アルバにあるユダヤの聖地、特にマクペラの洞窟を守るために必要だと言った。
マクペラの洞窟は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の両方の崇敬と祈りの対象になっている。シャロンは、マクペラの洞窟は前線にあると言った。
シャロンの運動は実を結んだ。
4ヶ月後の1994年2月25日、ブルックリン出身のJDLの役員ベンヤミン・アリアス・バルーフ ・ゴールドスタインは、イスラムの聖なる月であるラマダーンの間に、マクペラの洞窟に入り、50人の信者を殺した。ゴールドスタインは、クネセトに対するラビ・カハネの運動のマネージャーで、キリアット・アルバ入植担当の第一人者だった。
その大虐殺は、イスラエル軍内部のシャロンの協力者が支援したものと信じられていたが、それは、オスロ合意の調印後、初めてのイスラエル・パレスチナ危機を作り出した。
ラビン首相は、この政権不安定化の企てに対して厳しい行動を取った。
ラビンは、ゴールドスタインと仲間を「殺人の因がここにも海外にも見られる、低湿地に生えた逸脱した雑草」と言って非難した。イスラエル政府は、JDLと入植者関連セクトは違法であると宣言した。
しかし、この禁止にもかかわらず、これらのセクトは、オスロ合意に反対して動員を続け、「ユダヤ教を代表するのは自分たちである」と、厚かましくもたびたび主張した。
1994年3月、シャロンの長年の親友の元ラビ長アブラハム・シャピラが率いる約200人のラビが、キリアット・アルバに集まった。
そこでは、兵士たちに、ある宗教的な裁定が発表された。それは、「入植をやめさせるような、どんな軍事命令にも従うな」というものだった。
3月31日、シャロンと、そのパトロンの一人であるイツハク・シャミル元首相は、JDLと他のセクトによる1万人大集会を計画し、兵士に反乱を呼びかけた。
「もし兵士が司令官から、自分の母親を殺せと命令されたら、そんな命令に従う必要があるだろうか?」
と、シャミルは熱弁をふるった。
「ユダヤ人を故郷から引き揚げさせるのは、ユダヤ人の両親を殺すようなものだ。」
シャロンはその演壇から、「本日、イスラエル政府は、ヘブロンを外国人に売った」と公表した。シャロンとシャミルが熱弁をふるっている間、群衆は「ゴールドスタイン」「カハネ」と叫んでいた。
キリアット・アルバのJDLの市長ズビ・カツォバーが、「我々は、あらゆる方法を使ってヘブロン入植撤退に抵抗する」と脅した。JDLの仲間の一人が、「患者の病気を直そうとする医者のように、ゴールドスタイン医師は、国の病気を直そうとしたのだ」と付け加えた。
このような発展に応答して、ラビンは、イスラエルの国営放送で言った。
「我々は、イスラエル国家をバナナ共和国に戻してしまうことが想像される。」
ラビンはシャロンを、バナナ共和国の取るに足らない元首であるとこき下ろしたのだった。
シャロンとシャミル、ラビたちが反乱を呼びかけている一方で、シャロンの長年の親友、ADLの全米会長エイブラハム・フォックスマンは、アメリカのユダヤ人集団を結集しようと呼びかけた。それは、イツハク・ラビンの政府と、和平計画を支持しているクリントン政権に反対するためであった。
4月2日の『エルサレム・ポスト』で、フォックスマンは述べている。
「ラビンは、アメリカのユダヤ人の反対派を抑えようとして、クリントンにオスロ合意の支持を求め、それによって、ユダヤ人の組織的な影響力をなし崩しにしようとしている。」
●憎しみの風潮
その後数ヶ月の間に、ラビンに対する抑えの利かない憎しみの風潮が、イスラエル中で育っていた。
それを典型的に表しているのは、リクード連合党首ネタニヤフとシャロンが開催した大集会で、ラビンがナチの制服を着た姿が看板に描かれていたことである。
ラビンの暗殺の後の1995年11月7日、ラビンの未亡人のレア・ラビンが、NBCのインタビューで、その一連の大集会について語った時、次のように言った。
「これが起こるのを許す気風がありました。巨大な暴力の風潮、暴力を使い、暴力的にピケを張る。毎週の
金曜の昼に、私たちのここの道で、同じ人たちが来て叫んでしました。『殺人者、裏切り者、裏切り者、殺人者』と。
そして、この前の金曜日、私はが3時に帰宅し、自分の車を離れると、彼らがそこにいました。彼らは、大きな叫び声を上げ、『待て。一年以内、一年以内に、我々はおまえたち二人を、“イスラエルの王の広場”で殺す』と言いました。
そこは、和平集会が開かれた場所でした(ラビンは、その日にそこで殺された)。彼らは、開かれる予定の大集会について知っていたからです。」
暗殺直前の1995年10月、この憎しみの風潮のさ中に、ラビンは、アメリカ合衆国を訪れた。これが最後の訪問であったが、ラビンは、ADLや、シャロンの他のパトロンと再び争いを起こした。
『ワシントン・ジューイッシュ・ウィーク』1995年10月12号は、次のように報道している。
「先月の下旬、イスラエル首相イツハク・ラビンは、イスラエル政府が、パレスチナ人との交渉における方針に反対して、ワシントンでロビー活動をしているアメリカのユダヤ人に悪口を浴びせた。ラビンは、ユダヤ人組織の会員に、『アメリカのユダヤ人団体は、和平プロセスに反対するロビー活動を議会で行うな』と命令した。」
1995年11月4日、ラビンは、イガル・アミールに射殺された。
イガル・アミールは、シャロンの入植者運動の一つであるエイヤルの一員で、ラビンに反対するネタニヤフの大集会に頻繁に参加していた。また、彼は、キリアット・アルバにあるシャロンのテロリスト・セクトの本部に住んでいたのである。
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