●イラク攻撃の原因
1998年12月12日〜19日に行われたイラク攻撃の原因を作ったのは、アメリカ政府のトップレベルにいるイギリスとイスラエルのスパイ、およびその協力者である。
このネットワークは、シンクタンクの構成員や、元アメリカ政府関係者など、錚々たる人物によって動いている。特に、ブッシュの時代から政府のポストに就いていた人物が多く含まれている。
そして、このネットワークが、副大統領アル・ゴアを通し、クリントンに反イラクの決定を下させるに至ったのである。
以下に示すように、大統領顧問団の長官と、シオニスト・マフィアと結びついたその手下たちが、クリントンを除いた会議を何度も行って、イラクに対する詳細な軍事・政治プランを作り上げた。そして、クリントンが、イスラエルとガザに不運で無益な旅をして戻って来た時に、クリントンは、イラク戦争についての“すでに決まった”プランをプレゼントされたのである。
そのプランは、オーストラリア外交官リチャード・バトラーの報告を利用して作り上げられたものだった。
バトラーの報告書には、イラク政府が、バトラーが委員長を務める国連特別委員会(UNSCOM)への協力を“拒否した”と書かれていた。しかし、それは427の査察のうち、5件だけを拒否したというものだった。
イギリスとイスラエルの裏切り者たちが、イラク戦争を始めようとしていた目的は、副大統領アル・ゴアが大統領になるための道を作るということだった。イギリスとイスラエルは、少しでも早くゴアを大統領にすることを望んでいる。
イラク攻撃は、嘘の報告書という状況を作ってクリントンをだました八百長だと思われる。イラク攻撃を実行すれば、クリントンは孤立し、国内と国外からの反発を当然受けるだろうから、クリントンをだましたということは、その時のための隠蔽工作だったと思われる。
イギリスとイスラエルの目的は、ニューブレトンウッズ金融体制が実現しないようにすることである。
ニューブレトンウッズ金融体制は、フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、第二次世界大戦中に行ったものと似たような政策が土台となっている。ルーズベルト大統領は、イギリス帝国主義に対抗して、ロシアと中国と協力しようとしたのである。
ヘリテージ財団アナリスト、アリエル・コーエンは、現在進行している危険なゲームを代表するような典型的な見解を述べている。
「ロシア首相エフゲニー・プリマコフは、アメリカがイラクを攻撃した後、中国とインドに呼びかけて、“戦略的トライアングル”を作ろうとした。その意図は、IMFが荒廃させたアジア大陸の経済を発展させるということであった。これは、アメリカに対する集団的反抗である。」
また、イギリスとイスラエルは、イラクを攻撃することによって、アメリカ国内のテロリストの活動を煽ることを望んでいた。
そして、アメリカが世界の中で持っている利権の中で、イラクと関係のある部分を損ない、政府をさらに弱体化させようとしたのである。また、アメリカに友好的な穏健派イスラム諸国の信用をなくさせ、不安定化させるということも、その意図に含まれていた。
1998年の8月、化学兵器工場と誤認して、スーダンのハルツームの民間薬品工場を爆撃したことは、イギリスとイスラエルのこのような地政学的意図で行われたのである。
イラク攻撃は70時間で終了したが、新聞の報道によれば、その間に少なくとも250回の爆撃が行われ、425発の巡航ミサイルが打ち込まれた。これは、1991年の砂漠の嵐の45日間に使われたミサイルの約2倍である。
攻撃目標になったのは、大量破壊兵器の製造に関係していると言われる用地が30ヶ所、飛行場と防衛施設33ヶ所、通信関係の要所20ヶ所、共和国防衛隊の使用地10ヶ所であった。
イラク爆撃は、なぜ行われたのだろうか。そして、なぜこの時期に行われたのだろうか。
アメリカ国務省によれば、UNSCOM委員長のバトラーが12月15日に例の報告書を提出したから、イラクを叩くことが必要だったと言うのである。
しかし、バトラーのレポートは、国際的にも詐欺だと認められているような代物である。
バトラーは11月17日にイラクに対して427ヶ所の査察の要請を行ったが、イラク政府はそのうちの5ヶ所について、UNSCOMの査察許可を拒否したと述べている。そのうちの1件の詳細はこうである。
バトラーは査察官を30人にすることを要求したが、イラク側は1回の査察につき10人以内にしてほしいと言ったというのである。彼は、たったこれだけの理由でイラクを非難しているのである。
さらに、『ワシントン・ポスト』が国家安全保障顧問サンディ・バーガーに行ったインタビューと、他の政府情報筋によると、イラク爆撃の準備の決定は11月15日になされていた。
この日は、クリントン大統領がイラク爆撃の予定を中止して、イラクが査察許可を出すと誓約したことを、長官たちとイギリス首相トニー・ブレアに受け入れさせた日である。ということは、バトラーが査察のためにイラクに戻る前、そして彼の報告書が提出されるずっと前に、すでにイラクを攻撃する計画は立てられていたということである。
イギリスは、クリントンの“退却”について非常にやかましく批判した。11月13日と14日には、ブレア首相は、クリントン大統領の決定を変えさせようと何度も何度もアプローチした。
イギリス外相ロビン・クックは、ホーリンガー社の『デイリー・テレグラフ』に辛辣な記事を書いた。
そして、『デイリー・テレグラフ』の他の解説記事によれば、首相だった時に、1991年の“砂漠の嵐”に向けてジョージ・ブッシュに強い態度を取らせたマーガレット・サッチャーは、「クリントンは弱い」と言って嘲ったということである。現在、サッチャーは、反クリントンのホーリンガー社メディア帝国の国際諮問理事会の議長である。
11月19日、クリントンがアメリカから日本と韓国に向かう最中に、イギリス国防相ジョージ・ロバートソンがワシントンに到着した。それは、イラク攻撃についてさらに話し合いを進めるためだった。今回もクリントンは話し合いの場にはいなかった。
12月半ばには攻撃の計画はでき上がっていた。
国務長官マデリン・オルブライト、国防長官ウィリアム・コーエン、バーガーは、バトラーのレポートがでっち上げだということは知っていた。そして攻撃によって、外交上には非常に問題が生じるということも知っていた。しかし、とにかく計画は実行される事態になったのである。
●予想されていた激怒
アメリカとイギリスが一方的にイラク爆撃を決めたことは、国連安全保障理事会の常任理事国5ヶ国(アメリカ、イギリス、ロシア、中国、フランス)の間の協定に反することだった。そのような行動の場合には、安全保障理事会15ヶ国が全員一致で決定を下すことが必要とされる。
イギリスとイスラエルの計画通りに、ロシア、中国、フランスは激怒した。
ロシアは、アメリカとイギリスに駐在していたロシア大使を本国に呼び戻した。このようなことは、第二次世界大戦以来初めてだった。
ロシア国防省国際軍事協力局レオニード・イワショフ将軍は、タス通信にこう語った。
「ロシアは、アメリカのイラク攻撃の結果として、軍事と政治における路線を変更せざるを得なくなるだろう。ロシアは、アメリカの独断に反対する世界の国のリーダーになるかもしれないという恐れに直面している。」
国連の秦華孫・中国大使は、イラク爆撃を非難してこのように語った。
「イラクに武力を行使してもいいというような口実も言い訳も絶対に存在しない。」
アラブとイスラム諸国全体の反応はシビアだった。
「クリントン政権は、“文明の衝突”は賛成しないと言ったが、無法国家のレッテルを貼られて攻撃を受けるのは、イスラム諸国だけである。本当の無法国家、たとえばスロボダン・ミロシェビッチのセルビアなどは無罪放免になっている。
イギリスとアメリカの攻撃を支持する国は、イスラエル以外にはほとんどないが、日本はその少ない国の一つである。実際には、日本は全く気が進まないにもかかわらず、賛成しているのかもしれないが。」
イギリス国内のある派閥は、イラク攻撃に対しては不支持の立場を取るようになっていた。元国防相デニス・ヒーリー卿などが下院で行った演説や、王立国際問題研究所がこの問題に関して激しい意見を述べていることを見ても明らかである。
イギリスは、「イギリスはアメリカに従わざるを得なかったのであり、選択の余地があったなら、もっと柔軟な態度を取っただろう」と、このように信じ込ませるのがうまく、世界中のカモたちは、これを聞いて信用するのである。
反イラク活動に従事するイスラエルの有力なアメリカ人スパイ、スコット・リッターは、反アメリカの感情を煽っている。リッターは、イラク政府から、イスラエルのスパイだという非難を受けた人物である。
リッターは、「クリントン政権とバトラーは、国連安全保障理事会の信頼を裏切った」と、人々に言っているのである。
また、クリントンの弾劾は、ハリウッド映画『ウワサの真相』の通りになると予想した人たちが言うように、イラク攻撃によって弾劾手続きがストップするようなこともなかった。
そして実際には、CNNをはじめとするテレビ番組は、分割画面を使って、イラク爆撃のシーンと弾劾審議の場面を同時に映していたし、アメリカの新聞と雑誌は、両方を第一面に並べて掲載していた。これは、イラク攻撃によって、クリントンの失墜が幾分早まるような印象を与えていたことは確かである。
●罠を仕掛ける
12月19日の『ワシントン・ポスト』に、同社のレポーター、バートン・ゲルマンが国家安全保障顧問バーガーにインタビューした記事が掲載された。
バーガーは、イラク攻撃によって、アメリカへの跳ね返りが来るだろうということを認めている。しかし彼は、攻撃が必要だった理由として、「イラクを攻撃しなかったら、UNSCOMを失っていただけではなく、信頼できる武力の行使も失っていた」と述べている。
バーガーは、「攻撃のタイミングは、力の“好都合な配置”があるという考え方に基づいていた」と言っている。
「もしアメリカが待っていたら、ロシア、フランス、中国は、制裁を弱めるか、制裁をやめさせようという意図で、イラクの反応に対する“包括的な見直し”を始めるように圧力をかけてきただろう。」
「2月になってしまったら、もう何も言うことができない。世界も何も言えないし、アメリカ人も何も言えなくなる。『あなた方はなぜ突然イラクを攻撃するのですか?』と言われるのである。」
「さらに、もしイラクを攻撃しなかったら、(サダム・フセインが)大量破壊兵器を開発し、リヤドとクウェートに発射するか、またはイスラエルに発射するのは単に時間の問題である。」
と述べた。
ゲルマンが引用したある政府関係筋の話によれば、12月の攻撃計画は、11月15日に始まったということである。それは、クリントンが、攻撃中止の発表を行ったわずか数時間後のことだった。
10月31日に、イギリスの決議が国連安全保障理事会と衝突したが、この攻撃計画は、そのイギリスの決定に従って立てられていたのである。
その時点では、クリントンは、軍事行動が不可避であると明確に認識していたわけではなかった。11月13日、クリントンは爆撃の命令を出した。14日にはその命令を撤回し、攻撃準備を解除させた。そして、15日には最終的に命令を取り消し、爆撃を中止したのである。
クリントンはテレビ放送で国民に対し、「イラクは、国連兵器査察チームに完全に協力せよという国際社会の要求を受け入れたので、攻撃は中止された」と発表した。しかし、その放送が行われている間にも、他の計画が進行していたのである。
その放送と同時に、バーガーは、長官クラスの大統領対外政策顧問で構成されるいわゆる“代表者”グループ会議の議長を務めていた。
その“代表者”の二人、ゴアとオルブライトが外国に行っていた時には、恐らくゴアの国家安全保障顧問、レオン・フエルスがゴアの代理を務めたと思われる。クリントンは、その会議には不在であった。
『ワシントン・ポスト』によれば、その“代表者”たちは、ペンタゴンに戦争計画を立てるように命令を発し、ペルシャ湾に軍隊を配備し、24時間体制を取らせるように命令した。
彼らは、バーガーが“70時間作戦”と呼ぶ空爆命令を提案した。これは、現実に起こったことと全く同じ内容だった。
ゲルマンは、その会議の参加者(誰かは不明)の言葉を引用した。
「決定が行われたのは15日である。私は、サンディが会議の終了の時に、『私は、アメリカが1ヶ月以内に武力を用いることを期待する』と言ったのを覚えている。」
しかし、攻撃を実行するためには、口実を見つける必要があった。バトラーは、ここに登場した。
すでに11月21日、バトラーは、イラクがある文書を検討しようとしなかったということで、「イラクが協定違反をした」という声明を発表していた。イラクは、11月21日から23日の間に、国連安全保障理事会に数通の書簡を送った。それは、「そのような文書は存在しない」という内容だった。
この時もクリントンは、バトラーが新たに主張する“危機”に熱心に介入する気にはなれなかった。11月22日、クリントンは、韓国のソウルを訪問中にこう強調した。
「アメリカが過剰反応しないようにすることが大切である。」
しかし、この時から12月16日の爆撃までに間に、ワシントンの状況は変化した。弾劾が急速に進み、ゴアは権力の座に就きたくてうずうずしていたのである。
バトラーを使うということは、適当な方法だった。
バトラーは、オーストラリアの国連大使として、包括核実験禁止条約を実現するために、超党派的な動きを監督していた。その条約の目的は、核兵器の保有国を“5核保有国”とイスラエルだけに限定することだった。UNSCOMは、中東和平に反対するイスラエル人に利用されてきたのである。
1998年9月の『ニューヨーク・タイムズ』には、UNSCOMの委員だったスコット・リッターが、イスラエルの軍事諜報機関の副長官から、イラクの調査を依頼されたことを認める記事が載っている。また、アメリカの機密指定文書がイスラエルに流れたことについて、FBIから受けた調査を行っていることも認めていた。
1998年1月にもイラク危機が盛り上がったが、その時にバトラーは、『ニューヨーク・タイムズ』で、「イラクがテルアビブを吹っ飛ばすほどの炭疽菌とボツリヌス毒素を保有している」と述べている。この陳述には、何の証拠もなかったのである。
バトラーの告発によって、イラクを攻撃するべきだという声が上がっていたが、クリントンは、最初のうちはそれを拒否していた。しかし、その時には、攻撃へのカウントダウンはすでに始まっていたのである。
攻撃の最終決定がなされたのは、12月13日にイスラエルで行われた会議においてであった。その場所がイスラエルだったというのは、全く納得のいく話である。今回も、クリントンはその会議には出ていなかった。
『ワシントン・ポスト』によれば、その会議はエルサレムのヒルトンホテルで行われ、攻撃の最終命令がそこで出されたということである。会議の参加者は、国務長官オルブライト、国務次官補近東担当マーティン・インダイク、国家安全保障会議委員ブルース・リーデル、バーガーだった。
さらに、安全なビデオケーブルを使って、ワシントンにいる国防長官ウィリアム・コーエン、統合参謀本部議長ヘンリー・シェルトン大将、アル・ゴア顧問レオン・フエルス、CIA長官ジョージ・テネットが参加した。
会議の後、バーガーとオルブライトは、ホテルにいるクリントンに請願をしに行き、全員が攻撃を薦めていることを伝えた。クリントンはそれに承諾し、準備を始めようと言った。
12月15日、バーガーは、「この決定は、イスラエルからエアフォースワンでワシントンに帰る途中の大統領によって“補強”された」と報告した。そして翌日の12月16日、攻撃が開始されたのである。
●インダイク次官補の場合
アメリカ政府内にいるイスラエルのスパイを使って、アメリカの国益に反する政策を実行するということは、もちろん最近に始まったことではない。その典型は、ジョナサン・ポラードである。
ポラードは、アメリカの諜報関係者が“X委員会”と呼んでいるもっと大きなネットワークの“カモ”だったと思われる。この“X委員会”はアリエル・シャロンと結びついており、対外政策関係の上層部にずっと根を張り続けている。
イスラエル国防軍の非公式の代弁紙である『マーリブ』に、1997年11月7日に掲載された記事によれば、ゴアとゴアの補佐官は、以前から特にイスラエル寄りだということである。ベン・キャスピットはこのように書いている。
「ゴアとネタニヤフは最近かなり話している。彼らはお互いに手紙のやりとりもしている。ゴアはネタニヤフに手紙を書いたが、詳しい返事を書面でほんの数日後に受け取った。ゴアは、次期アメリカ大統領になることを望んでいる。ゴアはそのためにユダヤ・ロビイストたちを必要としているし、ユダヤ人の金と、ユダヤ人がアメリカで持っている影響力を必要としている。さらに、ゴアは親イスラエルであるが、シオニストだと言う人もいる。これはだいぶ前からの話である。」
国務省関係者の間では、ゴアの補佐レオン・フエルスはモサドのモグラかもしれないと言われてきた。1998年6月16日の『ワシントン・ポスト』には、このようは記事が載っている。
「フエルスは、国務省の役人たちに『おまえがイスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフに内部情報を流すルートになっていると信じている』と言われた、と言って怒っていた。」
イスラエルのスパイは、イスラエルとイギリスの政治目的を遂行するために、アメリカ政府に多数入り込んでいる。
彼らがどうやって入り込んだかという疑問の核心となる人物が、リクード党とつながったスパイ、国務次官補近東担当マーティン・インダイクである。
インダイクは、近東政策ワシントン研究所(WINEP)の初代議長を務めている。この研究所は、アメリカ・イスラエル公事委員会(AIPAC)のシンクタンクで、イスラエルの重要なドル箱となっている。また、ワシントンにおけるロビー活動の重要な団体でもある。
その証拠は、インダイクが、その任務に向けてかなり前から訓練を受けているということである。
インダイクはオーストラリア人の両親のもとにイギリスで生まれた。1968年、イスラエルがアラブ諸国の征服に成功した第3次中東戦争の直後、インダイクは初めてイスラエルに行った。
1973年には、エルサレムのヘブル大学で学ぶために、再びイスラエルに行った。
1975年には、オーストラリア国立大学で国際関係の博士号を取得するために、オーストラリアに戻った。彼のテーマは、「弱き国の力――イスラエルとエジプトが、超大国のパトロンの政策に抵抗する能力」だった。
博士号を取得した後、インダイクはすぐに国家査定局現代情報部副長官に任命された。この機関は、アメリカの国家安全保障会議に相当するオーストラリアの機関である。
彼の担当は、中東の諜報活動だった。このポストにいる間に、インダイクは初めて外交官リチャード・バトラーと仕事をすることになった。
1979年、インダイクはオーストラリア政府の公職を退き、リクード党首兼イスラエル首相、メナハム・ベギンとイツハク・シャミルの広報担当顧問となった。
1982年には、アメリカに移住し、AIPAC第一調査局の初代局長になった。第一調査局の現在の局長はマイケル・ルイスだが、その父親のバーナード・ルイスは、イギリス諜報機関中東担当のトップで、モサドに協力している人物である。
1985年、AIPAC委員長ラリー・ワインバーグの妻バービ・ワインバーグは、インダイクがWINEPを創設するのに必要な現金を調達した。「AIPACがこのようなシンクタンクを必要とする理由は、ワシントンにあるシンクタンクが“反イスラエル”的すぎるからだ」とインダイクは説明した。創設後、WINEPはただちに、イスラエルの政策関係文書をアメリカ議会に流す主なルートとなった。
1993年、インダイクは大統領特別補佐官に任命され、国家安全保障会議の中東部門を担当する“近東・南アジア上級ディレクター”となった。これは、彼がオーストラリアで務めていたのと同じ仕事である。
このポストに就くためには、議会の承認は必要としなかったが、市民権を早急に得なければならなかった。彼は就任するほんの8日前に、市民権を獲得することができた。
外国の政府の諜報部門にいたことのある人物が、国家安全会議に任命されたのは、インダイクが初めてのケースであった。
インダイクは、政府の“二重封じ込め政策”について、最初の公式発表を行った人物である。この政策は、商品の不買を強く強調し、イラクとイランに同時に攻撃的な態度を取るというものだった。
クリントン第1期の政権は、対外政策構想の一つとして、近東に関しては、湾岸戦争を行ったブッシュ政権の先例に倣うことを保証した。それは、イギリスの地政学的利益のためと、イスラエルにいるイギリスの傀儡のためであった。
1993年にその政策を発表した後、イスラエル外務省は、レオン・フエルスと連絡を保ちながら活動する特別部門を設置した。
インダイクは、1993年のオスロ和平プロセスも担当した。
インダイクと一緒にその仕事を進めたのは、国務省弁護士デニス・ロスだった。ロスは、インダイクとAIPACとWINEPで同僚だった人物である。
1995年の春、インダイクはアメリカ駐イスラエル大使となった。
その年の秋には、オスロ合意を結んだイツハク・ラビン首相が暗殺されたが、インダイクは、その山場に向かって事態が進行している最中にイスラエル大使になったのである。
1997年、インダイクはアメリカに戻り、国務次官補近東担当に任命され、中東政策を担当した。
元政府関係者のある人物が、インダイクに対し、「あなたはよくわかっていない」と不満を言った。
「インダイクに、モロッコとアラブ首長国連邦について簡単に説明してやってくれ。」
すると、インダイクがすぐさま口をはさんだ。
「それがイスラエルとどう関係があるのか。イスラエルとの関連を追求せずに、モロッコとアラブ首長国連邦だけを重大視しないでほしい。」
中東政策に携わっている高官で、イスラエルのスパイだと疑われている者は、インダイクだけではない。
経済担当国務次官のスチュアート・アイゼンシュタットもその一人である。
彼の仕事の一つは、イラク、イラン、リビア、スーダンへの通商停止の監督である。そして、彼はアメリカ・ユダヤ委員会の元役員であり、ユダヤ名誉毀損防止連盟の賞も数多く受けている。そして、イスラエル諜報機関と関連のある、イスラエル・ディスカウントバンクの役員も務めている。
ラジオ・フリー・ヨーロッパとラジオ・リバティーの会長、トム・ダインもその一人である。彼は、ラジオ・フリー・イランとラジオ・フリー・イラクのトップでもある。
ダインは、1980年から1992年まで、AIPACの重要なポストについており、そこでは、インダイク、ロス、そしてリクードの首相イツハク・シャミルと協力しながら活動していた。しかし、ラビン首相が、アラブとの和平に反対するアメリカのシオニスト組織の役員を追放しようと強く働きかけたため、インダイクは1992年にAIPACの職を追われることになった。
インダイクらは、共和党議員と協力して、イスラエルに関する共通の利害のために活動するという仕事も行っている。そこには、そのような活動のための土台が存在する。
例えば、元下院議長ニュート・ギングリッチのスタッフのトップであったアーン・クリスチャンセンは、かつてAIPACの立法スタッフを務めていた。そして、ギングリッチの妻マリアンは、元AIPACの雇われロビイストである。
ギングリッチは、このような“超党派”のサポートを受けて、クリントン政権の反対にもかかわらず、“イラク解放法令”に1億ドルを回し、イラクに対する秘密作戦の資金を作ることができたのである。
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