●Sunday Bloody Sunday
最近、マケドニアのある有名なラジオ局は、NATO緊急展開部隊司令官サー・マイケル・ジャクソン中将に歌を贈った。ジャクソン中将は、コソボでの展開に備えて、マケドニアの首都スコピエに2月から駐留していた。
歌のタイトルは“Sunday Bloody Sunday”だった。
その歌は、1972年1月30日、北アイルランドで、女王の第一大隊パラシュート連隊が行った大量虐殺をテーマにしたものである。その日、カトリック系住民のデモに対して、特殊部隊大隊の兵士が発砲し、14名が死亡したのである。
この事件は、非武装の人々を大量に虐殺した恐ろしい事件だったというだけではない。その事件の影響は幅広く、応酬に次ぐ応酬が繰り返され、北アイルランドは、暴力に次ぐ暴力という、以前の状態に逆戻りした。
さらに、イギリス軍の進出と介入の状況は、その事件によってより一層強化された。アイルランド住民は、その実体験により、「イギリス軍はその地域を“占領”している」と表現した。
ようやく最近になってから、北アイルランドは、クリントン大統領の後押しによって、終わりなき暴力のエスカレートから脱却することができたが、それまでは、カトリック住民とプロテスタント住民との抗争は、激しくなる一方であった。
“Sunday Bloody Sunday”が放送されたのと同じ頃、マケドニアの週刊『Fokus』5月14日号は、サー・マイケルの詳しい公式記録を、隣のコソボ自治州の読者に知らせる記事を掲載した。
1972年1月30日、当時大尉だったジャクソンは、第一大隊パラシュート連隊の副司令官を務めていた。その記事は、北アイルランドで行われた暴力行為と、現在のマケドニアの状況が似ているとして、両者を対比させていた。
そして、「アルバニア人共同体と、マケドニアの他の民族共同体との暴力沙汰が起こる可能性がある」と述べており、そのことについて特に強調していた。また、次のように述べているコメンテーターもいた。
「相手の“反応”を得るために、挑発的な行動を取っている小グループが、そのような衝突を引き起こせば、マケドニア国内に社会的な爆発が起こるかもしれない。その爆発によってマケドニアは粉砕され、それと共に戦争が次々と起こるだろう。」
コメンテーターたちは、「マケドニアの分割と共に、ついに第一次バルカン戦争が勃発するだろう」と述べていた。
『Fokus』は、次のように書いている。
「次の記事は、マケドニア人とアルバニア人双方にとって、非常に重要である。……マケドニアに駐留しているNATO軍司令官は、心理戦争のエキスパートで、諜報関係の経歴もあるだけではなく、非常に特徴的な経歴を持っている。」
そして“血の日曜日”の事件について述べた後、『Fokus』は次のように強調していた。
「その事件の後、カトリック教徒とプロテスタントの関係は、悪化の一途をたどった。……その2年後、ジャクソン大尉は、北アイルランドの全イギリス軍の司令官に昇進したのである。」
ジャクソンは、19歳で軍人になり、諜報部隊に配属された。そして1995年と96年には、ボスニアで国連軍の司令官を務めている。この時、ボスニアはNATOの事実上の保護領となっている。
●地上戦のチアリーダー
その記事の内容は、すでに一般には知られていることだったが、マケドニア人の多くは知らないことだった。その記事が出たのは、ジャクソンが、地上軍のコソボ介入をNATOに請願し始めた時のことだった。
ジャクソンが、自分の指示のもとでその地上軍を動かすことを請願していたのはもちろんのことである。ヨーロッパのマスコミが報道していたように、ジャクソンは、「NATOの地上作戦の“準備”は、6月の初めまでにしなくてはならない」と警告していた。
それは、「その時までに準備をしなければ、雪が降り始める10月までに、コソボ難民を帰すことができなくなる」という理由だった。
ジャクソンが提案したタイムテーブルは、明らかに詐欺的だった。
コソボは、セルビア軍と、3ヶ月に渡るNATO軍の容赦ない爆撃によって破壊されていた。爆撃は、通信システム、道路、橋、エネルギー供給などのインフラストラクチャー、都市や町などに行われていた。このような状況下では、直ちに再建を始めなければ、コソボの再建が成功するかどうかは、何とも言えない状態だったからである。
しかし、ジャクソンのこの“警告”は、ジャクソンを大いに称賛する一人であるイギリス首相トニー・ブレアが発表したタイムテーブルと一致していた。
ブレアは、ワシントンで行われたNATOサミットで、「NATOは地上軍を展開する決断を下すべきである」という主張を行ったが、その結果は完敗であった。
その後、NATOサミットが終わる時に、ブレアは意味深長な声明を行った。ブレアは、クリントン大統領への敵意をほとんど隠さずに、肩をすくめて、「どちらにしても、それは大した問題ではない」と言った。
それは、地上軍を展開する準備ができるまで、数ヶ月間の空爆が必要だからということだった。地上軍展開の最終期限は“6月”であった。
5月の前半の間に、地上戦の“犬”たちが、別の攻撃と共に登場してきた。特に、アメリカに本拠地を置くイギリス・メディアマシーンの登場である。
バルカン対策会議のズビグニュー・ブレジンスキーとそのグループは、クリントン大統領をはじめとして、軍事的侵略を止めようとする者は誰であろうと、総力を上げて反対運動を行い続けた。それは、コソボへの侵略だけでなく、セルビアへの侵略を止めようとする者に対しても行われた。
例えば、バルカン対策会議執行部編集長のジェームズ・フーパーは、4月29日、ムーン師が所有する『ワシントン・タイムズ』に、「ブレア大統領を希求する」という見出しの論評を載せている。フーパーは、その論評の中で、次のように述べている。
「我々は、空爆作戦から、勝利の得られる地上戦に変更するのに必要なリーダーシップを、どうやったら得られるのだろうか。最も簡単な方法は、独立宣言を廃止し、イギリスと再び合体して、トニー・ブレアの断固とした、主義原則に基づいたリーダーシップの恩恵を受けることである。」
NATOは5万人の地上軍を用意する決定を下したが、明らかにその原因となったのは、前述のような圧力によるものだった。地上軍を準備したのは、「協定を結んだ後に、コソボの治安維持を図るためである」ということであった。
ロンドンは、ジャクソンに三つの部隊を送ろうとしているが、それはおよそ“平和維持軍”とは呼べないものである。
第一王立アイルランド連隊(北アイルランドでの経験有)、第一王立グルカ・ライフル銃隊(概して非情だと思われている)、そして、サー・マイケルが“血の日曜日”の恥ずべき行為を行った、第一大隊パラシュート連隊である。
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